昭和49年2月25日 朝の御理解 テープ№49-024-A-1
末永静行
信心の心得一、
「神は声もなし、形も見えず、疑えば限りなし、恐るべし疑いを去れよと」
昨夜は大和さんのところの年に一回の恒例の謝恩祭、宅祭りがございました。日頃、勤めに勤めておられますから、神様も一生懸命に勤めて下ださっとるという感じのお祭りでした。もう本当ににぎやかな有り難い実に行き届いた有り難いお祭りを、まあ、共々にまあおかげを頂いたわけでございますが、私はそのお祭り後の教話を皆さんに聞いて頂いたその中に、こんな事を聞いてもらいました、神の一声は千両の金にも返られん、有り難く頂いて帰ればおかげは船にも車にもつめぬほどの神徳があるという御教えを冒頭に聞いてもらったんです、ね。
私は、ね、それを信ずるという事、それが信心なんです、神様があー仰せられる、教祖様はあー教えておられる、親先生はあげん言いなさるけれどもと言うたら、もう信心は出来ません、いや、信心が出来ておるようであっても船にも車にもつめぬほどの神徳、おかげはね、おかげとだけ仰っとらん、おかげは車に船にもつめぬほどの神徳があると仰せられる、ね、それを信ずる、そしてそれを行ずるということから、車にも船にもつめぬほどの神徳が頂かれて、もうそれこそ、車にも船にもつめぬほどのおかげもまたそれに伴のうて来るのであります。
だから、それを信ずるという事なんです、神様を信じとる、疑ごうてはおりません、親先生がなさる事はもう神様と仰る事と同じことというておってもです、その親先生のいいなさることを私は左右にしておったんではおかげは、いわゆる、厳密に言うと親先生はあー言いなさるけれどもと言うてけれどもをつけて、いわば、疑ごうておるという事になるのです。
昨日は日曜ですから、特別奉修委員の方達の特別御祈念がございました。まあ、二十名余りの方達が特別に私の健康の事、ひいては合楽教会大発展の事を祈って下さる御祈念の会であります、毎週日曜、必ず、ね、それだけの、言うならば、御初穂をなさって、そして、皆で一生懸命御祈念をしてくださるという会なんです。
で、今までずいぶん長く続いておりますが、一回だって特別奉修委員の方達に対するその御祈念の後の御理解を頂かなかった事はありません、ところが、昨日は私は御理解でないような御理解を聞いて頂いたんです、というのは昨日の朝の御理解ですね、御祈念後の御理解がです、ね、例えば、お話を頂き頂き、眠り半分のようにしておっても、もう一度、もうひとたび、例えばテープならテープで、昨日の御理解をまあ引用しますと、一カット一カットの説明を受ける、一場面一場面を見ていく、聞いていくという生き方になりゃ、もう、面白うして、面白うして、有り難うして有り難うしてというようなおかげを頂いて、アランドロンの話をしましたね、アランドロンを送るところの何百何十万という、まあ、あれを頂く事が出来たというようなお話をしたんですけれども、勿論そこからアランドロンと言うような、いわゆる、奇跡も起きて来るのであって、ね、それを頂こうとしない、繰り返し頂こうとしないというような御理解でしたから、私は昨日はわざわざ特別奉修委員の方達に対する御理解ではなくて、今日は朝の御理解をもう一遍頂いて帰って下さいと言う御理解でした、ね。
ところがみんな済んだらつーんと帰ってしもうた、ただ、熊谷さんが一人残って頂いていかれた、いや、神の一言は船にも車にもつめぬほどの神徳があるのに、今日は例えば一場面一場面をもう一遍頂いていったら素晴らしい信心の、言うなら、妙賀にも触れる事もできるのに、と私は本当に歯痒い残念な思いを致しましたという事を聞いて頂いた、そしたら昨日、大和さんのところにお参りし合わせておる特別奉修委員に参加してある方達がです、いんや、やっぱ気はつきました、どうも心に引っかかりましたけれども帰りましたという。
例えばね、皆さんがこうやって日にち朝晩御理解を頂いておられるその御理解がそのように聞き流されておるということを私は残念に思うた、おかげを頂きたい、力を受けたいといいながらです、ね、一番肝心なところを左右にしておる、右、左にしておる、いう事を聞いていない、それはどういう事からだろうか、結局私のいう事を疑ごうとるからです、ね、厳密、いんやそれは信じとります、なるほど信じてもおいなさいましょうけれども、ね、まだまだ疑ごうとるという事になりましょうが、はー親先生があー仰った、今日は普通じゃなかった、いつもあんな、言うならば懇切な御理解を頂くのに、今日はただ一言その事を仰って、朝の御理解をもう一遍頂いていけ、頂きなおしていけと言われたが、一場面、一場面をもう一遍噛み砕いて説明を分からんところを受けていくような気持ちで今日はおかげを受けて行かなければ成らんということが分からんはずがない、その証拠に皆が引っかかっとる帰りがけに、そうじゃろうち思いましたばってんから、頂かんで帰りましたとこう言われる、ね、残念でしょう、ね。
なるほど、神様は声もなからなければ、姿もないけれども、教祖生神金光大神の御教えそのものをです、私は神の声として頂くというところにお道の信心がある、それを疑ごうて聞くのではなくて、それを信じて頂くというところにお道の信心があるのです、ね、そう言う心掛けが私は恐るべし疑いをされよと教えておられるところだとこう思うです。
残念という言葉をつかいましたが、ね、例えば、ね、勝てるはずのない物に負けた時に私は言うのは残念ではないと思う。ね、例えば相撲なら相撲をとる、もう相手に勝つはずはないのに負けた時に残念という事はないと思う、けれども、勝てるはずのものを頂きながらです、負けた時こそが残念だと思うです、そうでしょうが、ね、いわゆる、昨日の特別奉修委員の方たちのことなんかは、もう実に残念です、分からん人達じゃないのに、けれどもそれを、言うならば、ほこにして帰っていくという事ですから。
実意丁寧神信心ということが言われますお道では、私は実意丁寧神信心という事は、ね、なそうと思えばなされる、やろうと思えばやれる事を実意丁寧にそれを頂いて行くということが実意丁寧神信心だと思うんです。手も届かないところ、とても出来そうにもないことを思い立ってやらねばならん、とても人間業で出来やせんと言うような事にまた修行に取り組むことではないのです、金光様のご信心は、やろうと思えばやれる、出来ないはずはない、それを発心する事、そしてそこを実意丁寧に頂いて行くという事がそのまま信心なんです。
私は今朝方、お夢を頂いた、はっきり意味は分かりませんけれども、秋永嘉朗の奥さん由喜子さんですね、いわゆる、安東さんの長女であります、が、もう、見事な花嫁姿をしておる、それをお父さんの安東さんが、もうそれこそ、娘ながらきれいだなと言わんばかりに見とれるようにしてみておられた、その花嫁御を打掛を来て、見事なその花嫁御を私と秋永先生が右と左の手をとって、いわゆる、小走りに一生懸命つま坂登りのようなところを走っておるところであった、私達は普段の着ですから、もう平気ですけれども、花嫁御の( )が着て、しかも高いぞうりを履いてましょう、もう汗ぶるぶるなってるんです、だから、私がたび裸足になったらよかろうと私が言うたら、いや、ちょいとなら待って下さいと言うて、その、花嫁衣装をこうしりからでしてですね、そして、腰巻一つが出るようにして、こう高くからあげをして、そしてまた手を引いて下さいと言うところを頂いた。
やっぱり信心はです、ね、いうならば、通るところを通る、いわば、ね、越さなければならないところはやっぱり越さなければならない、結婚を第二の人生と言うふうに申します、だから、そこに改まった心がなかなければ、それこそ、生まれ変わった心で結婚生活に入らなければならんのです、ね、でなかったらそこから良い人生が生まれてくるはずがありません、べんべんだらりと、いわば、過去も現在も同じという事であったら、ね、これからの未来が素晴らしいものに開けてくるはずがありません。ね、信心に縁を頂くという事も同じ事が言えれると思う、御神縁と言う、御神縁を頂いたらです、そこから、これは、なら、第三の人生と言うか、まあ、そう言うふうにいえれるかどうか知りませんけれども、新たな人生と言うものがそこから誕生しなければならんです、御神縁を頂いたら、それは結婚によって第二の人生といわれる以上の私は人生が開けてこなければいけんのです、今までの物の見方が全然違ってきた、信心のある者とない者はです、親のある事ないほどの違いがです、ね、おかげを受けるというだけではありません、心の状態が今まで赤に見えておったものが白に見えるぐらいなおかげを頂くこそ信心なんです、御神縁を頂いたということ、それに、御神縁は頂いておっても信心のある者もないような事にです、悩んだり苦しんだり、悲しんだりしておるとするならばです、こんなおかしな話はありません、結婚にふんぎったけれども、やはり娘の時と同じような考え方ではです、おかげの頂けれるはずはありません。ね。
例えば主人に仕えては妻として、しゅうとに仕えては、いわば、姑として、ね、そこに私は斬新な心の入れ替えが出来るところに第二の人生といわれる事になるのです、子供ができるでしょう、そこから、ね、母親としての更な人生と言うものがあるように、信心も同じ事、信心に縁を頂いたなら、ね、そう言う新たな人生が開けてくるという物の見方一つに致しましてもです、今まで難儀と思うておった事を有り難いと分からせてもらう、ね。
私は自分の心の中にですね、自分の心の中にたまっておるもの、一つの助かる事の出来ないと言う思い込みがお互いの心の中にあるです、こう言う心掛けでは助かる事が出来ない、ね、そのためにです、私共は信心の修行を怠ってはなりません、信心修行を実意丁寧神信心を続けなければなりません、ね、そこから、その修行が成就する時にです、昨日の御理解じゃないですけれども、アランドロンじゃないですけれども、自分の心の中にあのように鬱憤(うっぷん)しておった、あのようにたまっておったすっきりしないものがです、もう嘘のようにすっきりしてくる、今まで敵のように思うておった人でもです、それが神様に、仏様に見えてくるような心の状態と言う物に切り替えられる、信心とはそう言う働きをするものなんだ、だから、信心しとれば誰でも頂けれるというのではなくてです、ね、新たな人生に踏ん切りをつけるほどしのものでなければ御神縁を頂いた値打ちはないという事。
次にはやっぱり夢の中で、もう大変ややこしい地図、そして目的はここだという地図を頂いた、見取図が書いてある、ここにこんな橋があって、ここにはこう言う店があって、その店のところから曲がってとずうっと矢印をつけてあったり、ここには変わった大きな建物がある、ここからこう入ってくださいというのに、説明がつけてある、ね、そして、目的はここですよと言うふうに書いてある、なるほど、一見しただけでは非常にややこしい、だからどうでしょう皆さん、こげなんややこしいところにはいかんと言うたらもうそれっきりでしょうもん、実際にその気になってみたらややこしい事もなんもない、次から次と矢印がしてあったり、ね、または、ここにはこう言う変わった建物があるからそこの角からこう曲がって下さいと言うふうにかいてあるんだから、自分がその気にさえなりゃ目的にちゃんといけれるのが信心なんです、信心をしておかげを受けてくれと、信心する事によってでなからなければ頂けない、なら御神徳なら御神徳の世界と言うのもです、誰でもが行けるのだ、ね、だから、なら教祖金光大神様が歩かれた道なのですから、もう確信をもって説いておられるんだもん、皆もこのようなおかげが受けられる、ね、此の方がおかげの受けはじめ、受け始めに受けておって下さるその、言うならば、そのおかげをです、しかも、自分が通うてきたところに印をしながらたどっておらるのですから、それをそげんややこしかところにはいかれんというたら、もうそれっきり信心はありませんです、ね、なるほど一見はとても私共じゃできんと言うごとあるけれども見かけは、けれども本気でそこに行こうという気になればですいけれる、それが実意丁寧なんです、ね、間違いなく実意丁寧矢印の指し示す通りに歩いていこうと、それは、なら、決してとても人間業ではでけんといったような事ではなくてです、実に、例えば昨日私が申しますようにね、今日の御理解をもう一遍頂いていきなさいよと、それを頂いて行くというだけなんです、それにはです、やはり、疑ごうてかかってはそれが出来ないということです、皆さんが私を信じておるというんですけれども、信じておるというのは今の程度であって、本当に親先生のあの一言は神の一言であり、千両の金にも返られんのだという頂き方をするところにです、ね、なるほど、思いもつかない、素晴らしい場に出る事が出来るのです。
もう一つお夢を頂いた、それはもう、それこそ、絶壁のような、もう山の道です、段々登っていっとりましたら、もうそこは普通では登れない、上からこう綱が下がってきておるから、その綱にこうすがって行かなければここは通り抜けられないという所にでました、ところが、縄がこう下がって来てますけれども、どうも、なんか腐ったような縄のような感じでしたから私が行く前にその縄を握ってからぽっとこう引いてみたらぷつっと根元から切れた、腐っとったわけです。だから、これはもう仕方がないというて下へおりたところを頂いた、ね。
私共の信心の幾手にはです、そういうようなところもあります、だから、下りてきたからというてです、それは失敗したのではありません、それはもう当然下りてくるのが当たり前です、そうでしょう、そげなん腐った縄にあんたしがみついてからこうやってしよるなら、それこそ、まっさかさまに下に落ちなければなりませんもん、ね、だから、決して信心は難しい事じゃないです、進ませて頂いておってです、ね、ここは行かれないというところはです、行かれないでよいからまた後戻りしたらいいのです、ね、それを行こうと思えばいけれるところを行かず、ね、本気で行じようと思えや行じられることを行じず、ね、成そうと思えば成せる事を成さずして、ただおかげを願ごうておるというような信心はこんなに残念な事はありません、そうでしょう、やろうと思えば誰でも出来る、誰でも出来るところを通らなければ、言うならば、おかげの世界には到達できないというのですから、そんならそこはとても、ね、大変な、とても人間業では通れないという事ではなくて、通ろうと思えば誰でも通れるところなんだ、ね、それを私はおろそかにしておるという事がです、私は信心の怠慢だと思う、ね。
私共の怠慢がなされる事もなされない、その私事が残念だと思います、残念ということはね、できるはずのところ、頂けれるはずの物を頂けないという時に初めてつかう言葉が残念という事だと思うんです、そうでしょう、ね、頂けれるはずはないものを頂こうとして頂かなかったからと言うて、あー残念だったというのは事は残念という言葉は当たらない、当然の事だ、ね、とてもこの人には勝つはずはない、負けたからというて残念じゃない、負けるのが当たり前、力が違う、けれどもです、この人となら勝てれるという、ね、相手にです、ころっと負けておるという事が残念です。ね。
残念でしょうが皆さん、できることをしない、勝てるはずなのに勝てない、これが本当の残念です、ね、それは神様も残念に思いになる、私共も残念なんです、そこをおろそかにして怠慢にしてです、ね、おかげの頂けれるはずはありません、実意丁寧神信心とはそういう事なんです、ね、それにはまずはです、なるほど神は声もなし姿もないのですけれども、ね、教祖様が天地の親神様からお受けられた御教えそのものが神の声なのですから、それを信じて疑わずに、ね、受けて行ずるというところにです、ね、信心が、いや、実意丁寧神信心があると思うです。ね。
だから、なら半信半疑でも良いからです、ね、なら親先生の一言をです、半信半疑でも良いからそれを行ずると言うところから、はーなるほど親先生の仰るところに間違いはないという事がです、繰り返し繰り返ししていくうちにです、なるほど、神の一言は千両の金にも返られないという事が分かる、ね、そこから、いよいよ、神様を信じて疑わない、いわゆる、新たな人生と言うものが生まれてくる、そこから、ね、本当の、言うならばおかげ、当然そこに、その道を辿れば目的地につけれる、そこへ到着する事ができる、ね、その先ですよ、勝てるはずはない者に勝つようなおかげ、治るはずことのない者が治る、とても開けようとは思われないはずの道が開けてくるというようなです、私は、それこそ、アロンドロン的な、なら奇跡的というのはその先にあるものであって、信心の世界にはそれあります、今日は前提として、まあ、ないとして聞いて頂いたんですね、ただ当然のことを当たり前のことをです、なしていくということが信心だ、それもちゃんと目印がしてやる、矢印が作ってある、それを初めからです、ただおかげさえ頂けばよかけん、そげなんややこしいところはいかんでんというような、いわば、考えではですね、今日は信心の心得ですが、そう言う心得心掛けでは本当な信心のおかげは受けられないという事であります、ね。
もう本当に私は思うんですね、もうささやかなことでも親先生こういわれた事を本気で行じてごらんなさい、そこにはもう本当に、ね、お移りのようにして心の中に有り難いものが響いてくるです、ね、それが、私はおかげだと思う、それはそうかも知れんばってんそげなん訳にはいかんち、それは、結局神様を疑ごうておるから、金光様を疑ごうておるから、親先生を疑ごうておるからということになるのです、その疑いを去らなければです、本当なおかげは受けられません、ね、または疑いがある限り、それこそ、恐るべしであります、ね、その疑いをさらせて頂く、それも難しい事を言うて信じなさい、信じなさいというのじゃないでしょうが、ね。
私は今日は皆さんに、私共の信心は本当に神様に残念と思わせよるような信心ばかりしておるじゃなかろうと改めて分からせてもらった、そして、神様がそげんところまで頑張らんでんというようなところに、いうなら、頑張りをしておるような事がありはせんでしょうか、ね、神様の、いうなら、仰せに従うという、ね、御教えに従うという生き方がお道の信心です、それを聞かず、それを行じずして目的地に、言うなら、神様が下さろうとするおかげの世界に出る事は出来ません、ね。
御神縁を頂くという事は私は安東さんといい、喜起子さんのあれをお夢を頂いてです、言うならば、私と秋永先生が喜起子さんの手を引っ張っておるという事は、ね、まあ、私という事が、言うなら、親先生という意味でしょう、秋永先生という事は自分の信心の先達であり、先輩だと言う意味でしょう、だから先達が教えてくれる事を、親先生が言うて下さる導いてくださる事にです、少しははじめの間は汗ぶるぶるじゃろうけれどもです、ね、そこんところを辛抱して、やはり目的地につかせて頂くという事をです、念願としなければいけないと思うんですね。
どうぞ。